ART55ー町田で55人のアーティストを紹介するプロジェクトー VOL.11 (17人目)堀江 和真 Kazuma Horie


堀江和真個展

にゅい な 午後

『スモール・カンバセーション・ピース ~「ART55 ー町田で55人のアーティストを紹介するプロジェクト ー VOL.11 (17人目) 堀江和真 個展 “にゅい な 午後”」に寄せて』
平岡希望氏)

「それから僕は更衣室に行って制服を着て、帽子をかぶる。僕の帽子には緑の線が二本入っている。もう五年間ここで働いているというしるしなのだ。更衣室を出ると最終工程に入って、牙入れさえ終れば完成という象たちが一所懸命に鳴いている声が聞こえる。」(村上春樹・安西水丸『象工場のハッピーエンド』新潮文庫, p.97)

 象工場の工員を描いた掌篇『A DAY in THE LIFE』にはこのような一節があるけれど、目の前の、同じく《ア ディ イン ザ ライフ》と名付けられた象もまた、“牙入れ” を待っているのかも知れない。
 スリッパに履き替え、一望した「COMMUNE BASE マチノワ」のギャラリースペース中央には、一枚板の長テーブルが飴色の川みたいに置かれている。“左岸” を見やれば、目のきょとんとしたその象が細長い脚を揃えて佇んでおり、ライトグレーの少し筋張った肌は、“川” に点々と、飛び石のごとく置かれた《にゅいなフクロ》の質感とも重なる。
 黒、ピンク、ライトブルーに塗られたそれらは細長い紙袋の形をしていて、例えば買って帰ってきたパンを、うきうきとそこから取り出したかのように口を開けていた。

「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べて下さい。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります。」(『Carver’s Dozen レイモンド・カーヴァー傑作選』村上春樹・編訳, 中公文庫, pp.265-6)

は、『ささやかだけれど、役に立つこと』という短編で、子を亡くした両親に、パン屋の主が掛ける一言だ。二人を (ほんの少しだけ) 救ったのがケーキではなくロールパンであったように、堀江和真さんの作品も、日々の積み重ねに根ざしている。

 テーブル同様、木目調の壁と床とが広がるその奥にはコーヒーメーカーがあって、そこへ飛来するかのように掛けられた鳥の絵を見れば、

「5.3 10:05 ~ 10:26」

といった具合に、たしか2024年3月21日から5月8日にかけての、短くて数分、長くて1時間超の作業時間も画面には散らし書きされている。私は5月3日のこの時間、神奈川県秦野市のアトリエ/ギャラリースペース「田中現代美術研究所」へ12時までに向かうべく乗った電車内で書き物をしていた…ということが思い出されるように、描き込まれた時間は、堀江さんの制作の断片でありながら鑑賞者の日々の欠片でもある。
 見渡せばこの他にも、《やせる絵画》と題された一連の絵画群が4点ほど点在しているが、おしなべて、支持体であるパネルの角は石鹸みたいに丸くなっている。それは、作業1回につき4分間、ヤスリで削るという行程が課されているからで、数え間違いでなければ、この “鳥” は60分間 (4分×15回) 削ったようだ。「描けば描くほど消滅に向かっていく。」というのは堀江さんの弁だが、机の天板みたいになったそれはむしろ物質感が強調されて重たそうだ。

 さっきの “象” の鼻先にも《地層》という作品があって、2016年作というのだからこの展示においても “古層” にあたる。3つ並んだ石膏製のそれらは一抱えのいびつな円柱あるいは角柱で、とろけただるま落としみたいに、中央のものは緑→黄緑→黄色→ピンク→白と、下から色分けされていた。ここでは描かれたイメージではなく、それを成立させる色層そのものが拡大され、実体化されていた。
 翻って、《やせる絵画》に描きこまれたイメージ (鳥、イクラ、首の細長い肖像…) は、それ自体の伸びやかさとあいまって食パンにのせられたスライスチーズみたいで、イメージと、それを支える物質との “主従関係” が転倒されている。


 それは額縁にも言えることで、灰色の裏板、そして鮮やかなオレンジ色の装飾的なフレームは、既製品を塗り直した《にゅい家具》シリーズの1点だ。 額縁の機能 (の内1つ) を、画面へと集中させ、絵画世界への没入を促すものだとすれば、“にゅい額” の場合はむしろ、注意はそのおもちゃめいたカラフルさに引き寄せられる、滑っていく。
 そして “にゅい額” と絵の組み合わせは時に変わる。今回は展示されていなかったが、正面に男の子と思しき顔が配され、さらにその両脇から挟みこむように家々も描かれた絵は、昨年4月から5月にかけて開催された「“にゅい” な 部屋」(注1) の時、オレンジのフレームと真っ青な裏板で額装されていた。しかし、この7月の「にゅい な テラス」(注2) においては、ピンクのフレームと薄紫の裏板に変わっており、人形の着せ替え遊びに終わりがないように、絵と額、色と色との組み合わせの実験にも終わりはない。

 というより、この絵は加筆もされたようで、家-顔-家と並んだその上に泳ぐ、雲のような4つの絵の具の盛り上がりははじめ全て白だった。しかし再び見たその “雲” は、青2つ、ピンク2つにそれぞれ薄く塗り分けられていたし、画面全体も青緑がかっていた。
 おそらく、そうした加筆を踏まえ、より色彩的に合致する額へと “着せ替え” られたのだろうが、描けば描くほど削られていく《やせる絵画》だからこそ、手数にはおのずと限界がある。目の前の “鳥” であれば、広げた翼や尾羽の先から、まずはヤスリで消えていく。
 支持体をヤスリがけするというルールは、細胞におけるアポトーシスのごとく、際限なく肥大・増殖していくイメージを、あるところで断ち切るための時限装置なのかも知れない。 

“鳥” と “象” の間には《イメージを置く》という作品があって、一つ一つドローイングを施したプラ板がホワイトボードへ敷き詰められている。そうして形作られた輪郭は “M”、あるいは傍らの “象” の影にも見えるが、マグネット式だから簡単に取り外しできるし、

「雨宿りしながらの旅」

と、丸っこくレタリングされたプラ板が他3つのプラ板にまたがっているように、絵の具を重ね塗りするがごとく、マグネット同士を貼り重ねることもできる。

 

堀江さんの、「コーヒーどうぞ。」という声に振り返った長テーブルにはカップの他にも紙コップが、よくテイクアウトする時なんかの、飲み口の付いたものが置かれていて、白い側面にはドローイングが施されていた。《poem》という作品だった。
 この作品では「落書き」と「グラフィティ (ストリートアート)」、英語で共に “graffiti” と言い表わされるものが扱われているようで、蓋から何から白く塗り直されたコーヒーカップは “壁” だった。そこに描かれた、目のくりっとした動物のような “グラフィティ” は、しかしカップごとどかしてしまえば簡単に消える。《にゅい家具》にも《イメージを置く》にも通ずる、こうした模様替えのような気楽さと、《やせる絵画》のような、手を加えすぎることへの制限もまた、堀江さんの作品を構成する要素の一部なのかも知れない。

 コーヒーを一口含みながら左を向けば、《にゅいな部屋》というドールハウス型の作品があって、床面と、2枚の壁面で構成された室内には、黄色い魚の泳ぐ水槽やカラフルな一人掛けソファ…といった手のひら大の作品がレイアウトされている。しかし、部屋いっぱいに “家具” を置いてしまっては部屋が成立しないように、そこにもまた制限があって、《イメージを置く》を油彩的だとすれば、こちらは水彩的だろう。色のにじみの広がりまで考慮して筆が置かれていくように、“家具” もまた入念に配置されているが、ここでもやはり、“模様替え” はたやすくやり直せる。

 

窓辺の、観葉植物の葉陰で憩うように置かれた《にゅいな部屋》から振り返れば、長テーブルを照らす吊り下げ式のライトの中にはカラフルな “シャンデリア” も混ざっている。
 歪なダイヤ形に曲げられたハンガー、その一番下の角には一つ一つ袋詰めされた鮮やかな木片がおそらく十数個、白いワイヤーで吊り下げられているが、《ペインティングビルド》と題された本作は元々こうだったわけではない。前述の「“にゅい” な 部屋」においてはまさに積み木として展示されていて、知育玩具のように角の取られた、それぞれに違った形状をしたそれらを来場者は自由に組み合わせることができた。


 昨年末訪れた堀江さんのアトリエにおいて、《ペインティングビルド》はすでに今のような形で吊り下げられていて、おそらくは収納だったのだろう。しかしそれは《ペインティングビルド》に新しい見え方をもたらし、そういえば《にゅい家具》の “にゅい” は「アンニュイ (ennui)」から来ているそうだが、その語感には “new” という響きもにじんでいる。《にゅい家具》はきっと “にゅー家具” でもあるがニュー家具ではない、その新しさは、汲々と追い求められた “最新” や “新品” とは違った、もっとおおらかな新鮮さ、物憂さをやさしく払う風のような清新さと近しい。一方で、退屈、倦怠、不満がなければ新しさは生まれない。「にゅい」にはそうした葛藤、ダイナミズムがおそらく含まれている。

 

吊るされた《ペインティングビルド》から左を見れば、壁には “にゅい額” に収められた3点の《やせる絵画》が並んでいる。その内、「イクラ」と描き込まれた絵は2枚の木の壁で囲われており、さらには作業机まで置かれてブースのようだ。
 マチノワはコワーキングスペースらしく、こうしたブースがギャラリースペースの向こう側にもいくつか見えるが、そこで利用者同士が肩を並べ合っているかのように、作業机の上には小作品が数十個並んでいる。これらは全て《ノイズ》というシリーズの作品だが、素材も技法も全然違う。中央の、悪ガキめいた顔をした黄色いそれは木片にペイントされていて、手前の茶色い魚は張り子だ。お店を広げるように、目いっぱい机上へと並べられたそれらは、ここにはない《small good things》を思い出させる。

 《small good things》は、今年2月に開催された「花子のやりたいコンサート」(注3) において、堀江さんが舞台美術として発表した作品であり、有孔ボードを用いた背丈ほどのパーテーション3枚には、様々な小作品が、フック掛けされたりビス留めされたりしていた。
 それらは《ノイズ》同様、それぞれに異なる素材で作られているが、フックやビスのための穴があるという点で違う。先に引用した『ささやかだけれど、役にたつこと』の原題は “A Small, Good Thing” で、言うなれば《ノイズ》もそうだ。しかし《small good things》は見ての通り複数形であり、『象工場のハッピーエンド』所収の『ジョン・アプダイクを読むための最良の場所』は、

「春が来るとジョン・アプダイクを思い出す。ジョン・アプダイクを読むと1968年の春を思い出す。我々の頭の中には幾つかのそのような連鎖が存在する。ほんのちょっとしたことなのだけど、我々の人生や世界観はそのような『ほんのちょっとしたこと』で支えられているんじゃないか、という気がする。」(新潮文庫, p.48)

という一節から始まる。“A Small, Good Thing” が単に集まっただけでは、“small good things” という複数形にはならないのかも知れない。そこには何らかの連鎖が必要で、堀江さんは日々、そうしたバラバラの “ほんのちょっとしたこと” をアトリエに持ち帰っては、丁寧に手を加え、そしてフックへとかけるように制作しているのだろうし、この「ART 55」もまた、55人のバラバラの “A Small, Good Thing” を、“small good things” へと時間をかけて束ねていく試みだ。

 冒頭の引用から続けざまに、『A DAY in THE LIFE』はこう締めくくられる。

「そんな具合に、象工場の一日が始まるのだ。」(新潮文庫, p.97)

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(注1)「堀江和真個展『“にゅい” な 部屋」_2023年4月16日〜5月15日_オルタナティブ掘っ立て小屋 「ナミイタ Namiita」_東京都町田市三輪町2036

(注2)「ZOU-NO-HANA GALLERY SERIES vol.12 堀江和真展『にゅい な テラス』」_2024年7月2~21日_象の鼻テラス_神奈川県横浜市中区海岸通1丁目

(注3)「花子のやりたいコンサート」_美術/堀江和真、ピアノ/桑原花子、桑原裕子、フルート/森岡有裕子、パフォーマンス/桑原一郎、山井絵里奈_2024年2月25日_杜のホールはしもと_神奈川県相模原市緑区橋本3-28-1 ミウィ橋本 7/8F

 

 

開催日時:2024年9月7、8日(土、日)、14~16日(土~月·祝)

12時~19時

会  場:COMMUNE BASE マチノワ ギャラリースペース
町田シバヒロから徒歩4分、小田急線町田駅北口から徒歩10分

1981年生まれ。相模原市在住。桜美林大学文学部卒業。絵画とその周辺についてをテーマに制作を続けている。その表現は平面だけにとどまらず立体物や家具なども手掛ける。廃材やマグネットなどを使ったユニークな作品を得意とする。子供絵画造形教室「アトリエくま」代表もつとめる。

堀江 和真 インスタグラム

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