『すきとおるお宮に帰って、銀笛を吹く ~「ART55 ー 町田で55人のアーティストを紹介するプロジェクト ー VOL.12 (18人目) 鈴木晴絵 個展 “STARS”」 に寄せて』(平岡希望氏寄稿)

少し上目遣いの、アーモンドのような眼ははにかんでいるのかもしれない。頬のふっくらとした、男の子と思しき顔が「マチノワ」の奥に吊されたシャワーカーテンから覗いているが、見覚えがあるのは、
「次の展示、面白そうですよ。」
と堀江和真さんから手渡してもらったフライヤーに、その子の顔写真が大写しになっていたからだ。
鈴木晴絵さんの個展「STARS」はいわばその時から始まっていて、中央に横たわる、杉一枚板の大テーブルを遡上するように近づく(そのテーブル上に散りばめられた、砂子のような銀色の粒を横目に見ながら)。A5サイズのフライヤーから、人がひとり、手を広げて立っても隠せそうなほどの大きさへと拡大されたそこには折り目もあれば破れ目もある。そして影が、両手で頬を包むかのように伸びているがそれは薄い絵の具で、
「子どもの頃の兄です。」
と、鈴木さんが言い添える。
振り返って向こうの壁を見やれば、六角形を縦に引き伸ばしたような、言うなればクリスタルのようなイメージが、左から緑、黒、青、黒、赤、黒と6枚並んでいてそれは版画らしい。そして、“青いクリスタル” と向かって右の “黒いクリスタル” の間に並んだお兄さんの近影、描かれたうなじから横顔そして頭の先が、六角形の頂点を少し越えている。短髪の、少し尖った頭頂部のほぼ対角線上に位置する引かれた顎が、彼のシルエットをクリスタルに近づけているし、左端の “緑のクリスタル” から、さらに左手前へ少し離れたところに立った、尖塔のような立体とも呼応しているように、“こだま” のごとく、イメージがずれながら響いていく。
“尖塔” の頂点は、黒と青の “クリスタル”、その間に配されたお兄さんの頭の先と見かけ上同じくらいで、乱張りのフローリングみたいに敷き詰められた木材の上に載ったそれは、近づけば少し見上げるくらいだ。ベニヤで作られたらしい先端部分は2本の角材で支えられており、さらに備え付けられた4つのキャスターで自立している。“フローリング” 上の左横には、傾いだ車椅子のような、同じく小さなキャスターが付けられた立体作品も並んでおり、白く、筋状に塗られたその “背もたれ” は、裏から照らされたシャワーシートが浮かべる、月明かりに輝くさざ波のような筋とも、細く硬質な線で形作られた、お兄さんの横顔ともやはり重なっている。そして隣の “尖塔” あたりから時折聞こえてくる、
「そとにでたいです、うれしい、うれしい、まってください、(…)わたしのへやです」
…という機械音声が思い出させた一節は、
「自宅の階段を上がったところにある兄の部屋からは時々、機械音で言葉の羅列が聞こえてくる。」
だが、それは大テーブルにそっと置かれたステートメントの冒頭で、“車椅子” や “尖塔” と、私が仮に名付けていたそれらはむしろ “階段(と扉)” であり “屋根” であった。
扉越しに漏れ聞こえてくる、VOCA(Voice Output Communication Aid: 音声出力会話補助装置)の機械音声。その奔流から、ボタンを間断なく押し続けるお兄さんの背中を思い浮かべる鈴木さんの、さらに後ろ姿を、観客は作品を通して見ているのかもしれない。
「白い少女 白い少女 白い少女 白い少女 白い少女 白い少女」
6×14行にわたって「白い少女」が繰り返される春山行夫の詩を “読んだ” 時、私はコマ送りのようにどこまでも遠ざかっていく白い背中をイメージしたが、お兄さんと、鈴木さんと、観客の間にそれぞれ横たわる距離もまた果てしないだろう。“階段” から右を向けば、“緑のクリスタル” の左横に並ぶように、上から緑、緑、青、青、赤…と幾度も色を変え刷られたお兄さんの横顔が貼られているが、その内の1枚、シャワーカーテン越しに透けて見える彼の輪郭がぼやけているように、それは近づいていく、というよりはむしろ1歩ごとに遠ざかっていく蜃気楼、あるいは逃げ水と、どこまでも追いかけっこをしているようだ。そしてその営為は、鑑賞者が目の前の作品に、“尖塔” や “車椅子” といった既存の概念を仮に当てはめつつも、そこからはみ出すものに絶えず揺さぶられることとも近くて、“尖塔” = “屋根” の足元には、1枚の紙片が落ちていた。
「STAR STAR STAR STAR STAR STAR」
…と赤いスタンプで紙一面に、手作業の揺らぎを湛えつつ押された「STAR」は、時に「STARSTAR」となり「STARS」を生む。それは「白い少女」の羅列が、コマ送りの1人の少女にも、または整然と並ぶ少女たち(あるいは少女に喩えられた何か)にもなりうることとも似て、お兄さんと鈴木さんという個人的な関係性は、人と人との距離という普遍性に繋がっていく。
そして、大テーブル上の銀色の球体に改めて目をやればそれはガムの包み紙で、テーブルの端に並んだガムを1粒手に取った鈴木さんは、包み紙を外し、ガムを口に入れ、そして大きめの切手のようなそれを丸めて “星” を作った。
「つぎつぎと星の名前を言いあてるたそがれの国境警備隊」(笹井宏之)
に憧れつつも私は星の名前も星座も全然わからず、それでも星空には大きな星もあれば小さいものもあり、ややオレンジがかっていたり蒼ざめていたりして、時に瞬き、眺める内にもじわりと顔を出す。星空は一連の現象として体感される。”国境警備隊” が見る夜空と私の見る空は違うし、言葉を介さずに世界を見る人にとっての星空も当然違う、しかし、その違いはある階調の中に位置づけられる連続的なもののはずで、それを “断絶” と捉えてしまった先に、
「相模原市緑区の県立知的障害者施設『津久井やまゆり園』で入居者19人が殺害され、職員を含む26人がけがを負った事件から26日で8年になる。」
が待ち受けているのかもしれない。この新聞記事の切り抜きは、大テーブルに “星空” と共に広げられた、少し厚手で繊維質の、和紙みたいな “新聞” に貼り付けられていたものだが、蒼ざめた紙面にはぽつぽつと矩形の色面も載っていて、作りかけの地図みたいにも見える。
「He’s a real nowhere man」
「Sitting in his nowhere land」
こうして見ていたその間も、“屋根” からはビートルズの《Nowhere Man》(邦題:ひとりぼっちのあいつ)が繰り返し流れており、鈴木さんはこの “男” に、お兄さんを重ねているそうだ。歌詞は、
「Leave it all ‘till somebody else lends you a hand」(拙訳:手が差し伸べられるまで、そのままでいいんだよ)
と続くが、“階段” 左横の窓辺には、差し伸べられたかのように手袋が片っぽだけ置かれている。その手袋もいわば “ひとりぼっち” だ。傍らでは5枚の手袋が、ピースにした指先を突き合わせて星印を描いており、
「小熊のひたいの うへは そらのめぐりの めあて。」(宮沢賢治『星めぐりの歌』)
のように歌われる北極星だけでなく、星々は、その光を仰ぎ見る者に差し伸べている。
「つれていってください、ぼたんをとめてください、ありがとう、へやにはいりたいです」
…と、《Nowhere Man》の合間にまた機械音声が流れる。同じく賢治の『双子の星』において、「チュンセ童子とポウセ童子という双子のお星さま」は、「夜は二人とも、きっとお宮に帰って、きちんと座り、空の星めぐりの歌に合せて、一晩銀笛を吹く」のだが、その運指は、部屋の中でひとりボタンを押す彼の指先と重なるかもしれない。










写真:太田顕一郎氏撮影