本格的な寒さがやってきましたね。
そんな時は、絵画に囲まれた暖かい室内でのんびり過ごすのはいかがでしょうか。
今週末25日の土曜日は、マチノワで大森牧子、石橋佑一郎、Natsucoの3人の作品展示と
ワークショップでは不定形なパーツを組み合わせて、色鉛筆で着彩します。
どんな作品になるかは、作る人次第!!
ワークショップ詳細はこちら
最近、ワンデイギャラリーで大森さんの作品と1日過ごす事が増えました。
何か言葉で説明したいと思いつつ、大森牧子作品、語るのがなかなか難しいのです。
作家自身も「そもそも言葉に出来ないから描いている」、「自分の内面を表現している」と
作品の制作姿勢について表明しています。
そこを踏み込んで何か表面的な事を語るのもな~、というのもありますし
色と質感、筆致で表現された絵画をどう文章にすればいいのか、
どこから、何を引用しても嘘くさい、と思うのです。
かといって具体的に説明出来ないのもどうなんだろう、と考えていたのですが
最近、石原吉郎の詩を読んで
その読後感に似ているかな~、と思いました。
石原吉郎の詩は、一節やいくつかの言葉で情景が目に浮かぶ、と思ったら
次の言葉でどこかへ行ってしまって内容がとれなくなります。
例えば、「酒がのみたい夜」という高田渡が曲をつけた詩がありますが
全体で意味をとろうとしても、何をいってるのかさっぱりわかりません。
詩の抜粋です。
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酒がのみたい夜は
酒だけでない未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
・・・・・・・・・・・・・
これはまだわかるのですが
最後の方の
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酒が飲みたい夜は
青銅の指が玉ねぎを剥き
着物のように着る夜も
ぬぐ夜も
工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を掘りかえして
夜明けは だれの
ぶどうのひとふさだ
・・・・・・・・・・・・
ばらばらです。
「わからないのはわかった」「そして部分ならわかる!」という捉え方を
するのがいいんだろうな、、、
でも、わからないから嫌いというわけではなく、
わたしはこの詩が好きです。
最後の「夜明けは だれの ぶどうのひとふさだ」
で、ノックアウトです。
日ごろ、まったく詩を読まないのですが
酒が飲みたい時にこの詩に出会って涙が出るほど感動しました。
大森さんの作品もそんな感じで
一枚をひとくくりに理解しようとするのではなく、
ばらばらに捉えればいいのかな、と思いました。
筆の運びがうまいとか、この色がきれいとか、だけではない
描いてる本人にも説明できない、というか語ろうと思えば
語れると思うのですが、そうする事で本来ばらついていたり、ここでこう纏まっていて欲しいというものが
言葉で丸く収められてましまうなら言葉にしない、というのが作家の選んだやり方なのかな、と
つらつら考えています。